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最高裁判所第二小法廷 平成4年(オ)1546号 判決 1992年12月04日

東京都渋谷区本町一丁目六〇番三号

上告人

勝和機工株式会社

右代表者代表取締役

岡邦彦

右訴訟代理人弁護士

三宅正雄

東京都東久留米市前沢三丁目一四番一六号

被上告人

ダイワ精工株式会社

右代表者代表取締役

松井義侑

右訴訟代理人弁護士

松井康浩

右当事者間の東京高等裁判所平成二年(ネ)第四五二七号損害賠償請求事件について、同裁判所が平成四年四月二七日言い渡した判決に対し、上告人から全部破棄を求める旨の上告の申立てがあった。よって、当裁判所は次のとおり判決する。

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人の負担とする。

理由

上告代理人三宅正雄の上告理由について

所論の点に関する原審の認定判断は、原判決挙示の証拠関係に照らし、正当として是認することができ、その過程に所論の違法はない。論旨は、違憲をいう点を含め、原審の専権に属する証拠の取捨判断、事実の認定を非難するものにすぎず、採用することができない。

よって、民訴法四〇一条、九五条、八九条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 中島敏次郎 裁判官 藤島昭 裁判官 木崎良平 裁判官 大西勝也)

(平成四年(オ)第一五四六号 上告人 勝和機工株式会社)

上告代理人三宅正雄の上告理由

第一点 原審判決には、日本国憲法第三二条に違反した違法がある。

日本国憲法は、国民に対し、何人も、裁判所において、裁判を受けることを拒否されることはないことを保障する(第三二条)。しかして、ここにいう裁判所における裁判とは、裁判官による正しい裁判を意味し(裁判官によらない、あるいは、裁判官による正しくない裁判を受けることを国民の基本的人権の一として、憲法が保障する、と考えることは、余りに馬鹿げている。)、正しい裁判とは、結論ではなく、法律、特に裁判所の行動規律である手続法令、最高裁規則等に恪遵し、いやしくも違法な手続による裁判ではないことをいうものと解されるところ、

(1) 原審判決は、第一審判決が本件特許請求の範囲の解釈認定につき、とんでもない誤りを犯しているので、速やかに取り消されたいとする控訴人(本件上告人)の請求(そのことの故に、原審の一倍半もの印紙を貼用して控訴した)に対する判断を拒否し、全くあらぬ方向からする極めてユニークな理論構成(いまだ、このような理論構成を、特許侵害訴訟でとった例は、三〇年余りこの世界に生きてきた当代理人も、寡聞にして、知らない。推測であるが、少なくとも、一般の目に留まらないほど、数は少ない筈である)をとり、上告人らの控訴を棄却した。これは控訴審として、判断を遺脱したというより、この点についての裁判の、許されざる拒否である。控訴人側からすれば、控訴した理由について判断していただけない控訴審とは、何だろうか、何のための原審の一、五倍の印紙代だろうか、と不信と不満を禁じえない。あるいは、原審裁判官諸公は、第一審判決を取り消してほしいというのが控訴人の申立てなのであるから、取り消すわけにはゆかないといえば足りると考えたのかもしれない(民事裁判官としてベテランであられる裁判官がそんな単純な、子供だましのようなことを考えたものとは思えないが、)。それ以外に理由らしいものは見つからない。よもや、今日喧しい問題と、またまたなっている判決書の簡素化のせいではなかろうとは思うが、もしぞうなら、関係者の反省を望まずにおられない。冗長な判決がいけないのであり、字数が多いとか、長いから悪いというものではない。早く書かないのが最も悪いのであると、当代理人は、自分の経験から、考えている。裁判にとって大事なのは、丁半で運命を分ける鉄火場の勝負ではないから、どんな理由で、勝訴したか、敗訴したかである(現に本件と類を全く同じくする判決について、被控訴人側の輔佐人は、ある集まりの席上、「勝たしてもらったのはよいが、あんな理由で勝たしてもらっても、ちっとも有難くない」と、漏らしたとか)。このような裁判ばかりしていると、折角の専門部としての東京高裁の国民的信頼が危殆に瀕することを憂慮せざるをえないと感ずるのは、当代理人だけではないように思える。

(2) 原審判決は、その基準的手続を定めた民事訴訟法の規定を無視し、あるいは誤解して、された違法な裁判であり、そのような判決手続を定めた法規に違反する裁判は、線路を外れた暴走列車のようなもので、正しい意味での「裁判所における裁判」と呼ぶに値しないものである。

いまさらいうまでもなく、第一審判決が不当であれば、その控訴審である原審は、これを取り消すことを要し(民事訴訟法第三八六条)、これを相当とするときは、控訴を棄却し(同第三八四条第一項)、もし第一審判決がその判示した理由によれば不当であり、したがって、本来は取り消されるべきものであっても、他の理由によれば正当と認められるときは、一旦取り消したうえ、控訴を棄却するまでもなく、第一審判決と異なる理由で控訴を棄却しなければならない(同条第二項)のが、法の命ずる原審の職責であると、理解される。しかるに、原審裁判所は、何故か(理由不明)、そのいずれにも依拠することなく、ただひたすらに、上告人らの控訴を棄却したのである。判決手続の基準法の無視は、裁判所として、それだけで法律上許されないものなのであり、できるだけ速やかに取り消されるべきものと確信する(本件より先に言い渡された一連の関連事件(八件)について、東京高等裁判所の他の民事部は、第一審判決と異なる理由により請求を棄却すべきものとしながら、民事訴訟法第三八四条第一項を適用条文として挙げている。原審判決と比較して、いずれも兄たり難く、弟たり難く、「いったいどうなっているんだ」と慨嘆を禁じえない)。日本国民は、裁判所、ことに高等裁判所が、法律、裁判所規則の適用を誤るということは考えられない、と思うまでに、裁判所を信頼しており、したがって、その違背については、過敏なまでに神経質であることは、過去の事例からみても、顕著なところである。そして、「裁判所とあろうものが適用すべき訴訟手続法を誤ったり、適用しなかったりするとは何事ぞ」と非難する。いささか感情的にすぎるとは思うが、それが一般の国民感情であれば、国民の信頼をこそ第一義とすべき裁判所としては、常に深く自戒すべき重大問題である。当代理人は、裁判所のための準則である民事訴訟法法規を軽視する裁判所の態度に深い憂慮を禁じえない。ここに、絶対的上告理由ありとの確信に基づき原審を含む裁判所の名誉と伝統的に培われてきた国民的信頼のためにも、原審判決の速やかな取消を求めるものである。「前記法条の第一項を適用しようが、第二項を適用しようが、適用すべき前提事実の認定を欠こうが、あるいは、依拠するところを明示しなかろうが、些々たることである」という見方には、法規の公正な適用こそが正しい裁判の生命である、と信ずるが故に、到底賛同することはできない。むしろ、裁判所がみずから法を無視しておいて、どうして国民に法を守れ、といえるのであろうと考える。あえて、蕪辞を列ねて、最高裁判所の御明鑑に訴えるものである。

(3) 「遅れた裁判は、裁判の否定である」といわれる。二代目最高裁長官田中耕太郎先生がよく引用して、審理促進を説かれた法諺である。当代理人も、秘書課長在職時代、しばしば、親しく、その説かれるところを拝承し、その意味するところを深く肝に銘じ、今日なおその正しさを疑わないものである。

上告人ほか一名が本件を第一審東京地方裁判所に提起したのは昭和六二年(一九八七年)五月二六日、原審判決があったのは、平成四年(一九九二年)四月二七日であるから、裁判所は、第一、二審を通じて、ほぼ満五年を費やした計算になる。今日の実情で、遅きに失したと非難することは、適当ではないかもしれない。しかし、裁判が遅いかどうかは、事案の内容による。本件においては、第一、二審とも、双方に準備書面を数回にわたり提出させ、書証を提出させただけで、技術点及び法律点につき格別の釈明を求めるでもなく、ほとんど書面審理に近い審理で、損害賠償の額等につき立証を採用するでもなく、淡々として審理は進み、第一、二審とも敗訴に帰したのであった。かくして、我々は権利を無視する企業に対し、特許権者として、また、専用実施権者として、一矢をも報いることができず、指をくわえて、アウトロウ(我々からみて)の横行を見詰める他はなかった。しかも、特許権の内容たるや、まことに明確単純なもの(我々は、六回に及ぶ無効審判の請求をクリヤーし、二回の審決による訂正を行った)であった。この程度の事件がかくまでの歳月を必要とするとは、当代理人の多年の経験からも予想もできなかった。我が国の特許裁判につき審理のslownessと権利解釈の幅の狭さが国外から非難されているが、本件が、たまたま、その非難が、そのままあてはまる結果となったことを、日本の法律家として、遺憾に思わざるをえない。歳月の何パーセントかは無駄に流れたこととともに、技術点について目に見えて説明を求められるでもなく、もとより鑑定人、証人尋問を実施するでもなく、損害賠償の額についてすら証拠調(人証)を実施することもなく、早々に技術的範囲に属しないとの結論を得たらしい訴訟の進行を切歯扼腕の思いで(当代理人は、ついに、第一審に対する準備書面の中で「屈辱的訴訟指揮に耐えて」と心情を訴えた)見守ってきた。それにしては、長い歳月であり、国民の裁判を受ける権利を実質的に否定する裁判であったことを、ひとり上告人のためのみならず、裁判所のため、遺憾至極に思わざるをえない。当代理人といえども、お忙しい裁判官各位に対し、訴訟遅延を批判し、裁判の否定であるとまで非難するのは、心苦しい。しかし、本件に関する限り、目星しい訴訟行為もないまま、約五年もの歳月が、流れたことを、過去のみずからの体験にも徴し、一入残念に思わざるをえない(裁判所が忙しいのは、裁判所の宿命であると考えている)。

当代理人は、さきに、この項において、「特許権の内容たるや、まことに明確単純なものであった」と身勝手としか思えないような発言をしたので、この点について、釈明的に、所見を明らかにする。原審判決の事実摘示にも明らかなように、被告の製品(以下「イ号製品」という)が本件特許発明の技術的範囲に属するか否かの争点は、ただ一点、イ号製品における波乗り板(ボード)と円柱(マスト)との取付装置部分が本件特許発明(特許に係る発明)にいうユニバーサルジョイントに該当するかどうかにあった。もし原審裁判長が被控訴人に対し「イ号製品における取付装置は、本件特許発明にいうユニバーサルジョイントと同じような機能をし、同じような効果を挙げることを認めますか」と釈明を求めれば、問題は、すべて解決したものと、当代理人は、思料するのである。代理人によっては、そこで勝敗が分かれることを知っておられるから、相手方も、これを肯定することに躊躇があるかもしれないが、結局は、これを認めざるをえない筈である。何故なら、本件特許発明におけるユニバージョイントと同じ機能を完全に果たすのでなければ、時に使用者の生命の危険にもつながりかねない欠陥であり、そのようなことに敏感な使用者、すなわち、ウインドサーフィンを楽しむ若者が、たとえ値段を下げても手を出すことはまずない。イ号製品がそこそこに販売され、使用されたということは、その取付装置部の機能が、発明にいうユニバーサルジョイントと全く同じように機能し、同じ効果を奏していたこと、すなわち、この種運動具におけるジョイント部として同等の技術事項であったことを何より雄弁に物語るものである。となれば、その部品の名称、材質などは、発明という見地から全く問題でないことが明らかとなった筈である。私見によれば、この一言の釈明で中核的問題はすべて解決し、あとは損害額の立証など普通の民事事件と軌を一にすることになった筈である。当代理人が簡単な事案であったといったのは、その点に着目しての感想からであったと同時に、そんなことに釈明をしていてただけなかったことに大きい不満を感ずる(我々は、原審がその程度のことが理解していなかったとは気づかなかった)。釈明権不行使、審理不尽の典型といって、過言ではないと信ずる。

第二点 原審判決には、主文に影響を及ぼすべき重要な事項につき、判断を遺脱した違法がある。

第一審(東京地裁民事第二九部)判決は、イ号製品の取付装置と、本件特許発明の構成要件の一であるユニバーサルジョイントを対比考察するに当たり、その一実施例である三軸線ユニバーサルジョイントとこれを比較し、イ号製品の取付装置は、本件特許発明の構成要件cに該当するものとはいえない旨断定し、上告人他一名の請求を棄却したが、その控訴審である原審の判決は、上告人他一名が激しく争った右第一審判決の解釈及び認定の点には全く目をくれず、当事者双方も主張しない、突然降って湧いたような理論で、上告人他一名の控訴を棄却した。控訴人(上告人他一名)は、完全に虚を突かれた形で、控訴棄却の悲運に見舞われた。そこでは、控訴人である上告人の主張は全く顧られず、第一審判決の解釈認定とは全く係わりのない、天の一角からの閃きのように、以下に述べるような極めてユニークな理由と結論が判示されたのである。我々は、不敏にも、原審がそんな所で判決をしようとは、ツユ気付かなかった。関連事件について、東京高裁第六民事部及び第十八民事部からすでに右と大同小異の判決を受けている上告人は、本件原審判決に一縷の望みを託していたが、遂に、ローマ元老院におけるシーザーのように、「ブルータス、お前もか」と慨嘆の他のない憂き目をみるに終わった。「これで、一体控訴審なのだろうか。第一審の一倍半もの印紙を貼って、第一審判決の解釈認定を争ったのは、何のためだったろうか、控訴審というものは、そういうものでいいのだろうか」、といまだに戸惑いと憤懣を禁じかねているのが、上告人及び関係者の真情である。

もし、原審が一般の控訴審裁判所が、多年にわたり、そうしてきたように、本件の第一審判決の解釈認定が正しいかどうかの検討と判断を怠らなかったなら、原審は、容易に、第一審判決の解釈認定が誤っていることを知りえた筈である。したがっで、原審判決の結論もおのずと別のものとなっていたであろうと、上告人は、原審裁判官の見識を信ずるが故に、推測する(少なくとも、その確率は二分の一であった筈である)。実施例は、いうまでもなく、特許法上、あくまで実施の一態様を示したサンプルであり、その数が多かろうが、ただ一つであろうが、どんな場合にも、特許請求の範囲とは別のものであることは、特許実務における初歩的理解だからである。

ことに、誠に不審に堪えないのな、イ号製品と実施例を比較するという暴挙に対し、我々が縷々陳述したことは、原審判決の事実摘示にも記載されていないことである。すべて第一審判決の事実摘示のとおりということで片づけられているが、第一審判決に対する攻撃が第一審判決の事実摘示に書いてある筈はないのであるから、原審の手続としては、我々は、その点について何も主張させていただけなかったことになっている。それは、事実に反する、不実の記載である。不親切な判示というに止まらず、「何と乱暴な」という感を拭い切れないものがある、といわざるをえないのは、敬愛する裁判官各位のためにも、また、当代理人のためにも、何故こういうことになったのかは測りかねるだけに、残念なことである。

なお、すでに一言したように、原審判決が第一審判決の判断を不当とするのかどうかについて判断することなく、本件控訴を棄却したのは、判断の遺脱であり、理由不備であると同時に、理由齟齬も甚だしいものである。実務的慣行に背いて、適用法条を明らかにしなかったこととともに、控訴裁判所の威信を傷つけること甚だしいものがある。原審判決は、その全体を通じて、適用法条及び判断の根拠とした理由を明示しないクセが顕著であるが、論理的説得力を生命とする民事判決として感心しない。判決の読者の一人として、苦言を呈したい。

第三点 原審判決には、その判示した理由において、齟齬ないし、矛盾がある。

すなわち、原審判決は、その末尾部分において、第一審判決に触れ、「控訴人らの被控訴人に対する請求を棄却した原審判決は相当である」という。

しかしながら、控訴審は、第一審が控訴人(原告)の請求の一部または全部を棄却した案件を取り扱う裁判所である。控訴人の請求を棄却したから正当である、という判示は、控訴審としては自己矛盾も甚だしい。おそらく控訴審判決の一般的手続に捉えば、「これこれの理由で、イ号製品は本件特許発明の技術的範囲に属しないとした原判決は正当である」と判示されるべきものであろう。したがって、右判示部分は十分な注意の下に書かれなかったものと推測する他はないが、判決は、いうまでもなく、書かれたところがすべてであり、それ以外一切の弁疏を許さないものであるから、書かれた限りにおいて、右判示には、理由齟齬の違法があるといわざるをえない。

第四点 原審判決には、上告人(控訴人ら)の重要な主張に対する判断をなさず(その主張を事実摘示にすら挙げることはなく)、明らかに主文に影響を及ぼすべき重要な争点につき、判断を遺脱した違法がある。

第一審裁判所(東京地方裁判所民事第二九部)が本件特許発明の構成要件の一である「……するようなユニバーサルジョイント」は、その唯一の実施例である三軸線ユニバーサルジョイント又はせいぜいこれに類するものと解せられるとして、イ号製品が本件特許発明の技術的範囲に属する、とする上告人らの請求を一連の十余件につき、否定する趣旨の判決をしたとき、上告人関係者は、その創部以来、国の内外において、特許事件等の専門部としてそれなりの信頼と評価を得てきた東京地方裁判所民事二九部にあるまじき幼稚な理論づけに驚き、かつ、憤懣遣る方なく、少なからざる費用を投じて、全判決に対し、控訴を申し立て、激しく第一審判決の解釈の誤りを論難する主張を展開した。原審は、これらの主張を無視して、事実摘示の中にも挙げてくれなかった。第一審判決を不服として、適法に、相当額の印紙を貼用して一審判決の誤りを訴えた上告人らの立場は、どうなったのであろうか。原審関与裁判官各位は、「それでは控訴人が余りに可哀想だ」と思わなかったのであろうか。もし一片の思いやりがあれば、誰もが「それはひどすぎる」と思うのではあるまいか。結論は裁判官の判断によって決すること、控訴人としてはどうすることもできないが、せめていうことだけは聞いて、それなりの御判断を得たかったと思うのは、同じ目にあったら、国民の誰もが思うところではあるまいか。個々の法規に違反したとかどうかという前に、そもそも裁判の本質に背反した違法の裁判というべきものであり、日本憲法の保障する正しい裁判を受ける権利は、その実を失うことになりかねない。このような姿勢で特許侵害事件を取り扱っていては、折角お忙しい思いをしながら、理解に困難な事件を処理されても、国民は、やがてこの種裁判に対する信頼を失ってしまうであろうことが案ぜられてならない。裁判は、特許裁判であろうと他の種類の裁判であろうと、国民から信頼されて初めて真の裁判たりうるものである。ロスコーパウンド教授もいったように「裁判所が正義と衡平を実現することは大事なことである。しかし、それにもまして大事なのは、国民が裁判所は正義と衡平を実現するところだと信ずることである」からである。

当代理人は、本件原審判決がした審理不尽、争点に対する判断遺脱(判断の回避ともいえる)をひとり上告人のためのみならず、当訴訟代理人個人にとって、かつて誇るべき職場であった裁判所のために、悲しまざるをえない。

第五点 原審判決には、特許法第七〇条(本件に適用されるべき平成二年法律第三〇号による改正前の特許法第七〇条をいう。)(以下、本上告理由書において、同じとする)の解釈適用を誤り、その結果、誤った結論を導き出した違法がある。

原審判決は、イ号製品が本件特許発明の技術的範囲に属するか否かにつき判断するに当たり、一つの基本的論理を案出し、それを前提に、イ号製品は本件特許発明の技術的範囲に属しないとする結論を導き出したが、この前提とした論理は、前掲特許法第七〇条の解釈適用を誤ったものであり、この誤りは、当然に、その誤った認識と理解を前提とした原審判決の結論に影響を及ぼすべきものである。

以下、項を分けて、詳細に陳述する。

一 第七〇条の解釈の誤り

原審判決は、東京高裁の他の二か部の判決(第六民事部は平成三年七月一七日、第十八民事部は同年一二月一七日それぞれ言渡し)が関連同種の事件においてしたと同じように、願書に添付した明細書の記載は、特許請求の範囲の記載の技術的意義が第一義的に理解しがたいなど特段の事情のある場合に限り、技術的範囲の解釈認定に参酌することが許されるものである、とする、まことにユニークな(私見によれば、ユニークすぎるほどユニークな)論理を構築した。学説とすれば、画期的新説である。しかし、いま改めていうまでもなく、明細書の詳細な説明及び図面は、特許請求の範囲の母胎であり、生みの親、育ての親なのである。その特許請求の範囲の性格、特徴を決定する大事な正念場に、その母胎であり、密接にこれをsupportしている詳細な説明、図面は、特段の事情(極めて例外的な場合)があるのでなければ、登場できないなどと考えること自体、甚だしい誤解である。しかも、「……ときに限り許される」とは何たる言い方であろう。そんなことを許すとか、許さないとかいう権限は、誰もがもっているというのであろう?そのような情緒的なたとえ話は暫く措き、冷ややかに、あえて直言すれば、この新説は、残念ながら、明細書の詳細な説明、図面というものの役割及びそれらと特許請求の範囲との関連がblood is thicker than waterといわれる密接な関係にあること、したがって、特許法第七〇条の法意を全く理解しない、特許実務家にとって、青天の霹靂のような、驚くべき理由づけてあり、結論なのである。

ある最近の法律雑誌の慎み深い解説者(氏名は明らかにされていない)すら、原審判決と同種の案件に対する東京高裁第六民事部の判決(言渡しは平成三年九月一七日。我々は、事情あって、これに対する上告を断念した。)につき、「本判決は、発明の要旨認定と特許発明の技術的範囲とは、基本的に同一と考えるべきことを示唆するものとして注目される」と意外感を表明しておられる。なお、面白いことに、この理論と結論は、東京高裁専門部三か部の判決(本件判決を含めて計一二件)が筆を揃え、口を合わせて、それぞれに大同にして小異はあるものの、審理判断の大前提として、同趣旨の考え方を判決理由の冒頭に打ち出している。従来の実務に慣れた者にとって、唖然たる思いを禁じえない、驚くべき出来事である。この考え方は、少なくとも、当代理人が多年信奉してきた個人的見解と氷炭相入ないものであるので、ここに、昭和五六年一一月三日社団法人発明協会刊行の拙著「特許-本質とその周辺」一四四頁以下)を再録して別紙(一)として添付する(文中少し調子のきつい部分があるのは、庁関係者を中心とする異見が古くからあったことを意識したものであることによるものである)。

原審判決は、まず、こういう。(カッコ内は当代理人の批判的注釈)

「特許発明の技術的範囲は、特許願(注-法律上も実務上も、一般には特許出願の願書と呼称する。特許願は、書式の標題)に添付した明細書の特許請求の範囲の記載に基づいて定められなければならない(注-カッコ書にして、本件に適用されるべき改正前の特許法第七〇条、以下同じ、とすべきもの。条文の根拠がなければ、このような命題は成り立つ筈はない。)ものであるから、特許発明の技術的範囲を定めるに当たっては、その特許請求の範囲の記載が(注-「の一部が」、の意?)誤記であることが明細書の詳細な説明に照らして一見明らかであるとか(注-この場合には、訂正審判を経なければならないのが一般である。訂正審判も経ないで誤記を認定することは、我が国の特許法上は許されない)。あるいは、特許請求の範囲に使用されている用語が通常の意味と異なる特定の意味で使用されていることがその定義と共に(注-定義は必ずしも記載されると限らない)明細書の発明の詳細な説明に明確に記載されているなどの特段の事情がある場合に、誤記を正しい意味に訂正し、(注-この部分が、まず、救い難い誤りである)、特定の意味の定義を補充して解釈する以外は、まず、特許請求の範囲それ自体を技術用語及び用語の通常の意味と文法に従って解釈によって定めるべきものである(注-そういう理屈は、どこからも出てこない。あとに続く原審判決の理論構成を正当づけようとする伏線のようであるが、根拠の示されない独断では、説得力は皆無である)。そして、右のような解釈では特許請求の範囲の技術的意義を一義的に明確に理解できない場合に(注-裁判官ができない場合ではない)、発明の詳細な説明及び図面の記載並びにそれに記載のない事項であっても当業者が当然の前提としている技術常識を参酌することが許されるものである」、と(注-技術的範囲の解釈認定に当業者の技術的常識が出る判決も稀有というほど珍しい。発明の進歩性の問題と混同している)。

以上、煩をいとわず、原審判決の冒頭部分を原文のまま摘記したが、この判示に見られる特許法第七〇条に対する認識の不足と錯誤ぶりは、心ある者の眼をそむけさせるものがあると、失礼ながら、評さざるをえない。

ちなみに、同種の案件につき、平成三年一二月一七日言渡しの第十八民事部の一判決は、この点について、次のように判示している。

「ところで、特許発明の技術的範囲とは、特許権を付与された当該特許発明における権利の客観的範囲を画するものであるから(注-ここに、すでに誤りがある。「特許発明における権利」とは何か?特許権の客観的範囲とは?特許権の効力範囲の問題は、第七〇条とは直接の関係はない)、特許権付与の対象となった願書に添付した明細書の特許請求の範囲に基づき定められなければならず(注-特許権の効力範囲とは関係がない。特許発明の技術的範囲と特許権の効力範囲とは、同一概念ではない。第七〇条の意味の理解が不足である)、そして、特許請求の範囲の記載の解釈に当たっては特許請求の範囲の技術的意義が一義的に明確に理解することができないとか(注-誰が理解できない場合か)、あるいは、一見してその記載が誤記であることが明細書の発明の詳細な説明の記載に照らして明らかである(かつて、ある物質の加熱温度の表示に摂氏と華氏とを誤記したとする案件について、差止請求の本案裁判所も、訂正審判の審決取消裁判所も、主張を認容しなかった。)などの特段の事情がある場合に限って、明細書の発明の詳細な説明の記載を参酌することが許されるにすぎないものというべきであるから(注-特許請求の範囲の解釈認定に当たり、どうして裁判所みずからが、その判断資料を限定するのか、根拠が示されていないせいもあって、裁判所の考え方が不可解である)、以下この観点から、前記の特許請求の範囲の記載について検討することとする」と)。

原審判決が、この自説の論理をもって、本件控訴を棄却する理論的な屋台骨と位置付けていることは、その行文上、容易に看取できることであるので、以下に、失礼をも顧みず、率直に、あえて、その誤りを指摘する。この場合、ただ一点困ったことに、原審判決は、この大命題は、特許法第七〇条の解釈から作り出されたものであることを明言していない(それ自体判決として、違法性を帯有するものである)。しかしながら、原審は、本来は、適条を示すべきであるが何か思うところあって、肝腎な根拠法条を摘記しなかっただけであると判断されるので、その見地に立って、反論を進めることにする。

(1) 原審判決は、その立論の根拠とした特許法第七〇条が現行法において新設された理由も、右法条の法意も、全く理解していないとみざるをない。もし、正しくそれらの点を理解していれば、右法条をもって、詳細な説明及び図面の記載は、特段の事情があるときに限り参酌することが許されるだけであり、一般の場合には、明細書の記載等を差しおいて、まず特許請求の範囲の記載そのものと一般的技術用語及び国語の通常の意味と文法に従って解釈することによって、技術的範囲が定められるべきである、などという構想は、生まれる筈はないからである。現行法施行以来、今日まで、論文等において、特許法第七〇条を論じた人は、当代理人の「特許法第七十条の意味するもの」(昭和三八・九・一二記、判例タイムス一五〇号記念論文集登載)(別紙(二))を始めとして(ある説によると、この拙稿を契機に日本特許界に七〇条論の花が線乱と咲き乱れた、という)、数多くの人々によって論ぜられたが、原審判決に見るような解釈は、暁の星より少なかった筈である。本条新設の理由及び一般的解釈から、このような結論は、到底、導き出せないものだからである。それをあえてした原審判決及びこれと軌を一にする東京高裁の他の十一件の判決に対し、当代理人は、拍手を送ることは、できないのである。

特許界における万年ベストセラーズといわれる特許庁編工業所有権法逐条解説(平成三年一〇月二五日、第一〇版)には、「旧法のもとにおいては、特許発明の技術的範囲(代理人注-旧法時は、特許権の権利範囲。特許発明の技術的範囲という用語は、現行法案審議中参議院で修正されたものである)を定めるに当たっては、特許請求の範囲に記載された内容にのみ限定されるという意見、発明の詳細な説明を含めた明細書全体から判断すべきであるという意見があった。……この点、現行法は特許発明の技術的範囲は特許請求の範囲の記載にもとづいて定めなければならない旨を明確にしたものである、」(二一三頁)と。

この我が国特許界の一般常識的理解によれば、技術的範囲の解釈認定が特に裁判所によって色々多岐に分かれることを制約し、裁判所を名宛人として(…しなければならない、とされているのは、裁判所であるというのが、当代理人の理解である)できるだけ特許請求の範囲の記載から余り逸脱しないように…という趣旨から現行法に至って初めて設けられたものである。余りいろいろな資料に基づいて技術的範囲を解釈認定することは、権利保護と対第三者の利益との調和の見地から、好ましからずとして、このような明文を新設するに至ったものである。これによってこれをみれば、せいぜい詳細な説明を含む明細書全体から見るかどうかが問題の原点であり、その調和を「特許請求の範囲に基づく」ことに求めた現行法からは、明細書以外の学術用語集などの記載を考慮するかどうかなどは、問題にも議論にもなりえないのである。

右の一篇(別紙(一)からも伺えるように、当代理人は、特許庁方面からの強い「周辺限定主義」論に抵抗し、「裁判所のする技術的範囲の解釈認定に足枷、足枷をかけようとするな。裁判所は、主義や、イデオロギーで裁判するものではない。自由に入手できるすべての資料を総合して判定することは、一般民事裁判と異なるところはない」と主張して譲らなかった。一部弁理士の先生方から「特許庁は周辺限定主義、裁判所へ来ると、中心限定主義なのは困る」といわれた時も、特許庁が特許行政の立場から、周辺限定主義をとり、特許請求の範囲の記載がすべてであると扱うのは結構である。しかし、裁判所は、権利者及び相手方の立場を考えて、最も妥当とする解釈認定をするのであり、まさにケース・バイ・ケース。具体的妥当性の追求だけが、裁判所の主義である」と説明したものであった。当代理人の見解に納得してくれる人も多かったようで、それ以上、周辺限定か、中心限定かの主義論は、拡大せず、特許界に大きい波紋を呼ぶことはなかったとみている。以上のように、周辺限定主義を最善なりとしなかった当代理人であるが、本件で示された、特許侵害訴訟における原審のような見解は、さすがに、かつて主張したことも、正しいと思ったこともなかった(当代理人の知る限り、そういう説をなす人はいなかった)。当代理人にとっては、全くいまだかつて考えたことも、見たこと(聞いたこと)もない突拍子もなく、ユニークな発想である。ことに、明細書の詳細な説明(図面も同じ)を差し置いて、学術用語集だとか、JIS規格などを持ち出し、さらには、特許法施行規則付録様式の備考までも繰り出して、独自の議論を展開されるに至っては、もはやいうべき言葉を知らない。

今、本上告理由書作成のため、何回となく、原審判決を熟読する作業を進めている当代理人として、何回拝誦しても、その都度、出るのは、「分かっていないなあ」という長嘆息のみである。以下に、何故そう感ずるかの理由を具体的に挙げてみる。

<1> 特許請求の範囲と願書に添付した明細書の詳細な説明及び図面というものは、特許法及びその関連法規によれば、密接不可分の関係にあること、左のポンチ画に示すとおりである(画中Aは特許請求の範囲、Bは詳細な説明及び図面、Cは支持部材)。

<省略>

したがって、特許法第七〇条が「特許発明の技術的範囲は、願書に添付した明細書の特許請求の範囲に基づいて定められるべきものである」というのは、本件についていえば、取りも直さず、特許発明の技術的範囲は、それと密接不可分の関係にある詳細な説明及び図面を踏まえて、特許請求の範囲記載を基礎として定められるべきである、ということなのである。原審の理解は、全く同条の趣旨を誤解したものというほかはない。

<2> 一九六二年一一月発表のEC新特許制度草案は、その第二一条において、「欧州特許により与えられる実質的保護の範囲は、特許請求の範囲の内容により決定される。ただし、明細書及び図面は、特許請求の範囲を明確にするのに役立つ」と規定する(別紙(二)「特許法第七十条の意味するもの」より)。最も制度の趣旨にかなった合理的かつ常識的な考え方といえよう。

<3> いわゆる欧州特許条約においては、extent of protection(保護の範囲)と題した第六九条第一項において、「欧州特許権または欧州特許出願の範囲は、クレームの文言(terms)によって決定されるものとする。ただし、詳細な説明及び図面は、クレームを解釈するのに使用されるものとする(shall be used to interpret the claims)」と規定し、詳細な説明及び図而をクレームの解釈に役立てることを期待している。こうなれば、明細書の作成及び審査に心血を注いでいる実務家も、納得するであろう。原審判決のような考え方だと、出願書類作成を業とし、そのために勉強と経験を重ねている多くの実務家(弁理士、弁護士)にとって、権利解釈に当たり、特段の事情のある場合に限り、例外的にしか見てもらえない詳細な説明、図面などを苦労して作成する必要はないことになり、我が国の特許制度の正しい運営は、瓦解する虞が十分にある。一連の東京高裁の判決を最初に拝見したとき、当代理人の脳裏をかすめたのは、そのことであった。ここに思いを致さなかった原審裁判所は、「やっぱり、特許のことはわかっていない」と嘆かざるをえない。そして、それは心ある実務家の誰もが抱く慨嘆であろう、と評するほかはない。

<4> その用語等から見て、原審裁判所が、あるいは、そのよって立つ根拠としたのではなかろうかと推測される最高裁判例がある。しかし、当代理人は、発明の新規性、進歩性の検討に当たっての指針を示した、この判例を特許発明の技術的範囲の解釈認定に関する大綱を示すものと、原審裁判所が誤読、錯覚したとは信じたくない。その判例の要旨は、次のとおりである。もしこの判例の示した理論を技術的範囲の解釈認定にまで拡げようと意図したものと、仮定すれば、その意気は壮とするが、余りにも猪突猛進、まことにおソマツなことといわざるをえないから、当代理人は、原審が、そのような冒険をあえてしたものとは信じない。余りに異常な発想である。と同時に、何故こう発想したかの動機が依然謎である。ともあれ、該判例の要旨は、次のとおりである。

「特許法第二九条第一項及び二項所定の特許要件、すなわち、特許出願に係る発明の新規性及び進歩性について審理するに当たっては、この発明を同条一項各号所定の発明と対比する前提として、特許出願に係る発明の要旨が認定されなければならないところ、この要旨認定は、特段の事情のない限り、願書に添付した明細書の特許請求の範囲の記載に基づいてされるべきである。特許請求の範囲の記載の技術的意義が一義的に理解することができないとか、あるいは、一見してその記載が誤記であることが明細書の発明の詳細な説明に照らして明らかであるなどの特段の事情のある場合に限って、明細書の詳細な説明の記載を参酌することが許されるに過ぎない(最高裁平成三年一二月八日判決)。」

(ⅰ) 右判示は、一読して、誰の目にも明らかなように、出願発明の新規性、進歩性を検討する場合、その前提として必要とされる発明の要旨認定に関するものであり、すでに特許を受け、登録されている発明の技術的範囲に関するものでないことは、極めて明らかなことである。この判示から、その理論が両者に共通するものと、もし、万が一にも理解したとすれば、もはや、いうべきことはない。

(ⅱ) その事案は、拒絶不服審判に係るものである。したがって、ここにいう「特許請求の範囲の技術的意義が一義的に明確に理解することができない」ときとは、審査官(時に審判官)が、その専門的知識と理解力をもってしても、特許請求の範囲の記載の技術的意義が一義的に明確に理解することができないときは……という意であり、原審が誤解したと推測されるように、裁判官が一義的に明確に理解できないとき……という趣旨ではない(裁判官は、鑑定人、証人(鑑定証人)の尋問、調査嘱託等、技術的意義を理解するに必要な措置をとることができるのであるから、技術的意義を明確に理解できないなどという場合は、制度上、ありえないのである)。

(ⅲ) 「特段の事情あるときに限り」、詳細な説明も参酌することが許される、という考えでは、詳細な説明、図面を含む全明細書が特許原簿の一部を構成すること(特許登録令第九条第一項)の説明にも窮さざるをえないであろう。特段の事情あるときに限り、例外的に、参酌されるにすぎないものをわざわざ原簿の一部と取り扱うことなど、余りに馬鹿げているからである。また、図面も、特段の事情のある場合に限って参酌できる、などといったら、人は何というであろう?多くの人々は、「思わざるにも程がある」と、唖然とし、憮然とするであろう。

(ⅳ) そもそも、上告審でもない原審が何の理由で、また、何の必要があって、このような大上段に振りかぶったような理論(大義名分論)を判決の中で打ち出したのであろうか。もし、その方法が正しいと思ったら、黙って明細書の記載を差し置いて、用語集なり、JIS規格を自由に持ち出したらよい筈である。しかも、最も悪いことに、何故そう解さなければならないのかの理論的根拠を示していない。判決として、救いようのない欠陥である。時に高裁判例の中には、参照判例などを挙げる例も見かけるが、当代理人は、何か法衣の袖に隠れて物をいうようで、かねて、感心しない思いで拝見している。ある裁判が正しいかどうかは、先例があるかどうかできまるものではない。もっと胸を張って、先例があろうがなかろうが、裁判所としての所信を披瀝すべきである。特許判例などでは、日に新たに……というほど、新しい問題が提起されるのであるから、以前にあった東高裁の判例参照として挙げていただいても、さしたる参考にもならないことが多い。その参照判例なるものが誤っていなかったという保証はないし、本件に適切かどうかもわからないからである。そもそも、当事者は、当該事件についての受訴裁判所のみるところ聞きたいのであり、「かつて、これこれの判例があった」などという昔のことを聞きたいのではない。だいいち、從前の判例を金科玉条としていたのでは、特許事件のように、技術の進歩発展が激しく、法律、規則自体も頻々と変わる世界では、裁判所だけが硬直して、移り変る時代から取り残される。当代理人は、企業人に対し、個人的に、「もし訴訟を起こすことになったら、新判例を作るつもりで頑張れ」と説くのを例としている。従来の先例を知ることは大事なことである。しかし、それを字義どおり、墨守するかどうかは、また、別の問題である。

二 第九〇条の規定の適用の誤り

原審判決は、その大前提において、右法条の趣旨を誤解していること、上に申し述べたとおりであるから、その適用の結果も誤っているのは、理の出当然である。すなわち、特許請求の範囲の解釈認定に、豊かな、そして、決定的資料を提供するために特許登録原簿の一部として、取り扱われている、いわば資料の宝庫を避けて、技術用語集、JIS規格などを資料に、本件特許発明にいうユニバーサルジョイントの技術的意義を探求しようとしたのは、大きい誤りであり、まさに例えていえば、樹によって魚を求めたものである。しかも、偶然でも、魚が得られたなら、まだ救いもあろうが、手にしたのは、役にも立たない石の塊であったのでは、原審も、上告人も、無駄骨を折ったということにならざるをえない。無効審判、訂正審判、損害賠償と空しく争った上告人には、敗訴をもたらしただけの五年の歳月と多額の費用が惜しまれる。

(一) ここで、真先に御明鑑に訴えたいのは、本件特許明細書及び図面の記載を後廻しにして、いわゆるJIS規格(日本工業規格)や学術用語集などに本件特許発明にいうユニバーサルジョイントの意義の技術的解明の手がかりを求めたことにより惹き起こされた不幸な事態についてである。本件特許出願に当たり提出された明細書及び図面は、他の多くの特許出願における明細書等と同じく、作成者は、日本工業規格や学術用語集を座右に置き、たえず、これを参照して作成提出されたものではないのは、我々庶民の作成する文書が常に国語辞典や新かな遣い、当用漢字表に厳格に則って作成されるとは限らないのと同断である。したがって、本件特許発明にいうユニバーサルジョイントの技術的意義は、その辺に散在するJIS規格における定義や、学術用語集とは、関係はない。これらの資料(乙号証)は、忖度するのに、被告側がユニバーサルジョイントといっても、いろいろあること(友人の言によれば、約三〇〇種あるとか)を立証しようとして、つとに敗訴の心配のないことを察知した被告が気楽に提出したものである(被告にとって、それらは原告の主張を争う間接証拠にしかすぎない。当代理人は、争点に直接結びつかない意味で証拠適格があるかどうかすら疑問に思った。少なくとも、これらの書証は、例えば、JIS規格におけるユニバーサルジョイントの定義、あるいは、学術用語集における、その意味づはは、立証できるが、それがそのまま本件特許発明におけるユニバーサルジョイントの意義を意味することにはならない)本件においては、JIS規格等の定義がそのままストレートに、本件特許発明における特定の意味をもったユニバーサルジョイントに当てはまるものではないことは、原審裁判所もよく御存知の筈。現に、現行法の下において言い渡された判決における技術的範囲の解釈認定に、明細書の記載をさておいて、いきなりJIS規格、学術用語集などを引用した判決(当代理人は、みずから関与した数多くの判決においてはもち論、その他、目に触れる限りにおいては、このような方法論をとったもの)は、ないように思うが、原審が新機軸を狙ったとすれば、裁判所らしからざる勇み足であり、思わざるも甚だしいものである。

原審判決は、細かいことであるが(判決というものの権威のため、「こまかい」では、すまされない問題であるが)、特許願の様式を定めた当時の特許法施行規則の様式備考7の「技術的用語は、学術用語を用いる」という特許願記載上の心得を示したものまで、我が田に水を引く手掛かりとしているが、それはムリというものである。様式の備考なるものは、我々が、日常、区役所またはその出張所で書類を出すとき、氏名にはふりがなをつけろとか、その他どうでもよいようなことまで、事務処理の便宜のため人民に記入を求める書類作成上の心得にすぎないことは、裁判所にも顕著なことである筈である。明細書に使用する技術用語にしても、例えば、「いかの衣揚げ法」という方法特許のクレームには、「細かく裁断したいかの身を沸騰しているテンプラ油の中に投入し、浮き沈みしつつある状態において、撹拌し、……」と記載してあったと記憶する。何十年も前の東京地裁時代のことであるが、よく話の種にするので、おぼろげに覚えている。この例では、どこが学術用語であろうか。このような例は、特許事件を扱っていれば、始終お目にかかる筈である。備考の心得などというのは、そんなものであるし、それで支障はないのである。学術的でない用語を用いたからといって拒絶になることもないし、事実として学術的には記載できない場合もある。要するに、「自分勝手な用語はいけませんよ」というだけのことであり、とても、技術的範囲の解釈認定に、裁判所で取り上げていただくようなものではない。こんなところへ力を入れると、却って、「特許というものの全体が分かっていないなあ」という裁判所にとって不幸な印象を深めることになる。

第六点

原審判決は、本件訴訟の命運を岐ける重要な争点の一につき、審理不尽、釈明権不行使のほか、特許法第三六条(本件に適用されるべき昭和六〇年法律第四一号による改正以前の特許法第三六条という。以下、この理由書において、同じとする)に違反した違法があり、これらの違法点が判決に決定的影響を及ぼしている。すなわち、原審判決は、その末尾部分(四二頁)において、「仮に、被告製品(注-本理由書にいう「イ号製品」)のゴムジョイントが本件発明(注-正しくは、本件特許発明)のユニバーサルジョイントと同一の作用効果を奏するものとしても、そのことが直ちに、本件発明のユニバーサルジョイントと構成(注-構造の誤記か)を異にする被告製品のゴム・ジョイントが本件発明のユニバーサルジョイントに相当する(注-該当する、当たるの誤記か)ということはできない」と上告人らの主張を排斥したが、この判断は大きなミスジャッジである。そして、それは、原審が、この重要事項に審理探求を尽さず、釈明を求めることもせず、淡々と、審理を進めた配慮の足りなさに起因するものであり、さらに、「直ちに、……いうことはできない」とする理由(根拠)を示さなかった理由不備に至っては、事実審最後の裁判所として、その責任を全うしたものとはいいかねる。

いうまでもなく、特許法第三六条が明細書の「発明の詳細な説明」の項には「発明の目的、構成及び効果」を記載することを厳しく要求しているのは、その発明の奏する作用効果こそが、人間の頭脳的所産としての発明の根源をなすものであるので、その目的、構成とともに、作用効果を明らかにすることにより、その発明を他と区別する特徴と、その効果が産業の発展にも貢献できるものかどうかを明確にしようがためであることは明らかなことである。けだし、その奏する効果に創作的なものがなければ、構成に創作的なものがあっても、人類の文化の向上にも、一国産業の発展にも貢献しえないからである。この見地からすれば、原審判決が示した前記の考え方など問題にならない謬見であることは、誰の眼にも明らかであろう。重ねて申し上げたい。発明は、その奏する効果の創作性の故に尊重され、保護に値するのである、と。当代理人は、原審が何故思いをそこに致し、釈明を求め、審理に及ばなかったかを、ひとり上告人のためのみならず、専門部といわれる原審のため、心から惜しむものである。

もし、原審が仮定論として扱った点(当代理人は、本訴の命運を分ける重大な局面において、仮定論などで、当事者の主張をあしらう裁判所の姿勢を不真面目であり、関係者に対する礼にも欠ける非法律的取扱いを心よしとしない)が釈明、審理の結果、事実と認められれば、ゴムであろうと、ポリウレタンであろうと、材料の品質を問わない本件特許発明のユニバーサルジョイントと技術的に同一となり、当然、結は逆転する筈である。原審の淡泊な審理が惜しまれてならない。

原審は、本件特許発明にいうユニバーサルジョイントの作用ないし機能はあきらかであるが、その構成が明らかでない、と、今更特許法第三六条違反、すなわち、本件発明の詳細な説明のユニバーサルジョイントの「構成」が書いてないから、不明であると、いいがかり的な批判をしているが、本件特許明細書(それは六件もの無効審判請求にさらされ、二回の訂正審判を経た、いわば百戦を潜り抜けてきた、古つわものである)の記載にいまさら不足をいうのは、裁判所として行きすぎである。そういわれても、権利者としては、いまさら何もできない(訂正審判もできる筋合いではない)。裁判所はあくまで、与えられたもの(Aufgabe)としての明細書を有姿の侭、素直に読んで判断すべきであり、特許庁のした行政処分としての特許権付与に侵害訴訟の場で文句をいうのは、我が国の法制では、筋違いである。そして、最も肝腎なことは、本件特許発明の明細書には本件発明の構成(constitution)が、発明の目的、作用効果とともに、完壁に記載されているのである。法は、発明の一個の部材であるユニバーサルジョイントのそのものの構造(construction)を明らかにすることなど、要求していない。原審判決の言い分は、すっかり安定した完全無缺の明細書を、あと知恵で文句をいう、駄々っ子のようなものである。一言付加するに、特許発明については、部材・部品の具体的構造を明記することは、特許法上も、事実としても、要求されていない。「一分間に三六〇回回転するよう運動を与え」というような一部又は全部が機能的に表現されている発明については、具体的構造は、設計書の問題であり、特許明細書の問題ではないのである。発明は、創作的技術的思想であるから、実施例に構造が書かれていても、まさに一個の実施例、特許請求の範囲の記載の技術の一つのサンプルなのである。したがって、詳細な説明及び図面から具体的物品は製作できないのであり、これを具体化した設計図(製作図面を必要とするのである。「ユニバーサルジョイント」の構成ないし構造が不明であるなどということが、如何に特許法を無視したものであるか、関係者の反省を求めて止まない。今後とも、そんなことで権利者が敗訴するようでは、善良な特許権者、したがって、我が国の特許制度にとって、不幸なことだからである。「ひとこと(一言)多い」ことは、生活の中でよく非難される。裁判官にとっても同様であるが、そのうえ、裁判所は、審理判決を掌理する立場上、むかしから、ひとこと(一言)足りないことが非難に値するのである。しかし、裁判所発足以来、多くの先輩は、その厳しさに酎えて、これをクリヤーしてきた。原審だけがその例外を享有することはできない、と思料する。

一言ならず、余計なことかもしれないが、ついでに、経験豊かな裁判官からなる原審が、何故、このような審理不尽、釈明権不行使などと、裁判所として受けてはならない批判を受ける結果になったかと、他人事(ひとごと)としてでなく考えてみると、原因は東京高裁におけるこの種侵害(控訴)事件の取扱い方にあるものといわざるをえない。原審を含む東京高裁工業所有権部(通称)においては、商標関係を除く審決取消請求事件は、原則として、第一回口頭弁論期日、あるいは、それ以前に、準備手続に付し、書記官、調査官立会の下に、争点、立証の整理を単独、時に複数の準備裁判官が行い、審理を重ねて終結に熱すれば準備手続終結、即日又は近い期日に合議体による口頭弁論に廻し、直ちに終結、言渡期日は追って指定という形で裁判が行われるのが原則である。当事者は、準備裁判官及び調査官の前で技術的な説明をするチャンスと時間が与えられる。これに反し、本件の一連の事件においては、三か部のうち、どの部もすでにしばしば言及したように、双方に準備書面の提出を認め、書証の提出、証人尋問の申立を聞いただけで終結、その間にただ一度の釈明を求められたこともなければ、技術の説明を聞こうといわれたこともなかった(双方は実際の操作ぶりを掲影したビデオテープを御参考までに提出した)。事件の内容からいえば、調査官も、この種の侵害事件については経験はほとんど皆無であり、特許庁の実務とは次元の違う世界のことであり、技術の評価、特許請求の範囲の解釈、イ号製品の技術的評価の問題が絡むから、本当は、我々の時代にしばしば試みたような技術説明、証人(鑑定証人)等の証拠調を必要とするのであり、それがなければ、技術点についても経験及び知識が必ずしも豊かとはいえない裁判官が正しい技術についての認識と評価をすることは至難の業である、と当代理人も信じて疑わない。我が国特許界の有力者から、特許裁判官に技術研修を……という声が公にされたことからも窺われるように、現在の審理方式で果たして十分なのかと不安の念を抱いている向も少なくないようである(右の御意見を契機に、当代理人は、裁判官は目の前の事件を掘り下げるべきである。事件は最善の教科書であり、証人等の関係者は、私の良き教師であったという意見を短文で、公にした)。裁判所は「いまのままでは不安だ、特許裁判が揺げば、特許制度が揺らぐ」という懸念を払拭するための努力を関係者によつてされるべきであろう。現在のような書面審理に等しい審理方式では、本件に見るように、釈明権不行使、審理不尽の批判は、跡を絶たないであろうし、何より、裁判所に対する信頼が揺らぐことを懸念する。

第七点

原判決には、以下に述べるとおり、多くの点において、理由錯誤ないし理由不備の違法がある。判決理由の記載を追いながら、逐一指摘する。

(一) 原審判決は、その理由の一の1(六頁あとから四行目以下)において、「特許発明の技術的範囲は、特許願(正確には、「願書」)に添付した特許請求の範囲の記載に基づいて定めなければならないものであるから……」というが、どうして、そういう理論的結論になるのか、根拠を明らかにしていない。おそらく前掲特許法第七〇条の法意を指すものと推察するが、判決の読者の中には、そう推察しない人もありうるし、現に旧法(いわゆる大正一〇年法)までは、第七〇条のような規定はかったのであるから、もし、同条の法意を表現したのなら、「(第七〇条)」と明記すべきである。本件判決にとって重大な意味をもつテーマであるだはに、労を惜しんだ不備が惜しまれる。

(二) 原審判決は、右に引き続き「特許発明の技術的範囲を定めるに当たっては、……(特段の事情のある場合以外は)……まず特許請求の範囲(注-範囲の記載)自体を技術的用語及び国語の通常の意味と文法に従って解釈することによって定められるべきである」というが、何故、そういうことになるのか、全く明らかにされていない。「……国語の通常の意味と文法に従って」とは、どういうことか。どんな判決にしても、同じことではなかろうか。原審判決は、ここで何をかいわんとしたのか。許されるなら、釈明を得たいくらいである。

(三) 原審判決は、特許請求の範囲の技術的意義を一義的に理解できない場合」(七頁あとから二行目以下)というが、どんな場合かわからない。誰が理解できないかが最大の問題であるが、判決からは、どうにも読み取れない。物事の筋道としては、裁判官が理解できないときでないことは確かなことのように思うが、そのいわんとするところが、一義的にも、二義的にも、不明である。

(四) 右(三)に続く部分に、「当業者が」という概念が、特許侵害訴訟では珍しく、登場する。この、正確な意味不明の当代理人のいわゆる「特許弁」が何の注釈もなしに、全く関係のない侵害訴訟の判決に登場するのは場違いである。この語は、特許庁の手続きにおいて、詳細な説明の項の記載事項及び進歩性の判断基準として、不正確なまま、しばしば登場し、したがって、審決取消訴訟にも登場するのであるが、特許権侵害訴訟は、すでに登録になって特許権となってた発明の実際的効力をどうみるのかが正念場であるから、権利が生まれる前の観念や用語が登場するのは、ただに珍しいというだけでなしに、特許訴訟の二重構造質に気づかないものと批判を免れない。

(五) 原審判決は、右に引き続き「……参酌することが許される」というが、誰から許されるのか、何故許されるのか、全く説明がない。判決として、理由不備もいいところといわさるをえない。理由も明らかにせず、結論だけ押しつけるのは、裁判の性質に反する。

(六) 原審判決は、その理由の二の2(八頁二行目以下)において、工業規格を持ち出すのは、これまた、場違いである。そもそも、主務大臣が定めたものだから権威があるといわんばかりの理由づけは、権威主義的で当代理人の好みに合わない。大臣が制定しようが、誰がしようが、参考になるものはなるし、ならないものはならないのである。何故これが本件のユニバーサルジョイントの意義を一義的に理解するのに役立つか、説明がないと、わからない。学術用語集等にしても、同様である。判決を読む者が知りたいのは、どんな権威者なり、学会が発行したかではなく、内容が、どうして本件に当てはまるかである。それをぬきにして、えらい人が書いたものだから立派なものだといわんばかりの説示は、力の入れ場所が違うように思えてならない。

(七) 原審判決は、その理由2の(一)の末尾部分(一〇頁あとから四行目以下)において「JISには右以外にユニバーサルジョイントの定義に関する記載が見当たらないことは、当裁判所に顕著である」という。「見当たらないことが裁判所に顕著」とは、どういうことか明らかでない。詳しくいうことを遠慮するが、「裁判所に顕著」という概念は、一般の民事訴訟法の教科書にいう意味ではないようである。ユニークな表現である。「……記載のないことは明らか」で何故いけなかったのか。何か奇をてらうかのような表現は、いつの時代、誰が読むかわからない判決の表現としては、歓迎できない。一七頁末行から一八頁初行における「当裁判所に顕著」も同様である。ヘンな日本語が判決に出没するのは、上告理由以前の感心しないことである。

(八) 原審判決は、その理由一八頁初行以下において、本件(特許)発明の特許請求の範囲の解釈に当たって、一般的にいう意味でのユニバーサルショイントを考察の基礎として差し支えない」旨判示するが、年代が隔たりすぎているせいか、当代理人には、差し支えない、といわれている名宛人は誰か不明である。

(九) 原審判決は、双方から提出された書証を判決の判断資料として採用するに当たり、ほとんど、その成立について判断をしていない。「成立に争いのない甲第二号証」と書けば、あとは何回出てきても、いきなり「甲第二号証」で十分であるという考え方とも受け取れるが、書証の二重構造性を無視した判決は、裁判所の重要な意思表明としての判決であるだけに、不当なテヌキといわざるをえない。特許庁の審決・異議決定などが、伝統的に形式的証拠力を気にしないのは、その方面の勉強不足によるもので、本来、その範となるべき裁判所がそのルーズさにならうのは、感心しない。それをもって、判決の簡素化だというのなら、思わざるも甚だしい。判決を法令に違反してまで簡素化することは、誰にも許されてよいことではないと、当代理人は、信じて疑わない。

第八点

原審判決には、技術点に関する解釈、判断において、理由不備、審理不尽のほか、前掲特許法第九〇条及び経験則に違背した違法があり、これらの違法は、いずれも原審判決の主文に決定的影響をもたらすものである。

一 原審判決は、その理由2の6(三五頁あとから二行目以下)において、特許請求の範囲中の「該ブームをにぎる使用者が……起伏させることができるように前記波乗り板に連結するユニバーサルジョイント」という記載からして「該ブームをにぎる使用者が……回転及び起伏させることができるように前記円柱を前記波乗り板に連結するユニバーサルジョイント」とは解釈できない、という。まさに、古くから大審院判例によって戒められている、字句にわれて発明の趣意を見失った解釈である。また、「ヨニバーサルジョイントの機能、あるいは作用は示されていても、構成は何ら示されていないことになるから、採用できない。」ともいうが、本件では、ヨニバーサルジョイントの機能、作用が示されていれば十分であり、構成が示されていないことになる、というのは、特許界における多年に及ぶ経験則に違背する我儘な議論である。要は、イ号製品が本件発明にいう機能を具え、同じ作用を営むか否かが決定的問題であり、その接手であるユニバーサルジョイントの構造がどうであるかなど問題にする余地はないことである。

二 原審判決は、少し遡るが、その理由の一九頁四行目から七行目において、「帆を波乗り板上で回転及び起伏させることができるように」とはどのような状態を表わすのか、一般的用語の意味から理解できないわけではないものの、必ずしも一義的に明らかでない」という。原審がこの程度の技術的理解が十分できなかったことは咎められるべきではない。歯切れは頗る悪いが、当代理人は、なまじ技術的な点に十分の理解があるようにいう判決の多い中で、正直である点をむしろ評価したい(ただし、そのことを判決でいうかどうかは別問題である)。しかし、一義的に理解できないなら、何故、これを理解する方途を講じなかったかである。この程度の技術的意味を説明することは、弁理士である輔佐人でも、容易にできようし、もし、より客観的な説明を……と望むなら、ほかの弁理士、あるいは特許庁の審査官、審判官等を証人尋問すれば、平均的知識人としての知識を持っておられる裁判官なら、容易に納得できる結論が得られた筈である。法が許容する手段を尽さず、技術的意義が「必ずしも明らかでない」とは、何たる発言ぞや、と、当代理人に限らず、心ある人は、誰もが不信感を募らせることと思う。原審裁判官に誤解があるようであるが、裁判官は、国が特許した権利の内容が不明であるなどといえる立場にはないのである。こんな理由で権利者の請求を拒否することは、それこそ、まさに裁判の拒否である。

本件特許発明にいう「ユニバーサルジョイント」を修飾している前掲部分の技術的意味が、事実上、よくわからなかったなら、「一般的用語の意味から理解できないわけではないものの」など体裁をつくろうような弁解はしなかで(判決としては全く無駄な釈明である)、わからないものはわからないで仕方がないし、法も当然予想していることであるがら、わからないことを恥じ入るには及ばない。「理解できないわけではないものの」といってみたところで、判決の読者にとっては、同じこと。無駄な言訳である。無駄なことは、判決や法廷ではいわないことが肝要である。

すでに詳述したように、もともと特許請求の範囲の記載の意味を明確にするために、苦労して書かれている詳細な説明及び図面をヌキにして、特許請求の範囲の記載の技術的意義を理解しようと考えること自体、理屈にも、実際にも合わないことである。ここで引き起こされた問題は、特許制度の本質に係わり、特許実務の運用を左右するものである。それは、単なる一個の学説の問題ではないことに、原審は、不幸にして、気づいていなかった、という他はない。

三 原審判決には、採証の法則に違反し、かつ、上告人らが訴訟物としなかった訴訟物につき判断した違法がある。

原審判決は、その理由の末尾部分(四二頁一、二行目)において、イ号製品は、本件特許発明の構成要件の一であるCエを充足していないから、右製品は、本件発明の技術的範囲に属するものとは認められない」と結論を判示するが、上告人らは、右Cエの要件は、訂正明細書の特許請求の範囲に明らかなとおり、「ブームをにぎる使用者が帆を波乗り板上で回転及び起伏させることができるように円柱(マスト)と波乗り板(ボード)に連結するユニバーサルジョイントを備えること」をいうものと、訴提起以来主張し続けてきたところ、原審は、この案件の技術的意味が第一義的に理解することが困難であると称して、JIS規格等を証拠に、原審が独自に解釈認定したユニバーサルジョイントを本件特許請求の範囲にいうユニバーサルジョイントと独断的に置きかえたものが構成要件であると断定し(例えていえば、上告人らは、〔A+B+C〕からなる風力装置が本件特許発明の必須の構成要件であると主張し続けたのに、原審は、関係のない書証を採用して、本件風力推進装置は〔A+B+D〕を構成要件とするものと判断し)そのまま、この構成要件とを対比し、前記の結論を導き出したものであるが、上告人らは、イ号製品が〔A+B+D〕を構成要件とする発明の技術的範囲に属するなどとは一言もいったこともないし、それは全く上告人らの与り知らない別個の問題なのである。原審は、みずから構築した別個の発明を本件特許発明と誤信して、結果において、上告人らが訴訟物としない訴訟物につき独り相撲をとり、その結果だけを上告人らに押しつけたものである。あえて、独り相撲にたとえたのは、本件特許明細書に則しない虚像を実像と錯覚したことを意味するのである。実質的には、上告人らは、本件訴の提起により特定した訴訟物につき原審の判断は受けていないのである。そのような錯雑した結果となったのは、ひとえに、原審が本件特許発明の構成要件の解釈認定に当たり、独自の見解に基づいて、本件について全く実質的証拠力を欠如した証拠を採用したことによるものである。しかして、その結果、技術的範囲の解釈認定(それは価値判断・解釈を含むが故に、単なる事実の認定はない)につき、前掲第七〇条に違反するに至ったものである。

上告人は、このような例外的判断を受けたことを限りなく遺憾とする。もしすべての手段を尽くして、どうしても、右の構成要件が上告人他一名が主張したようには読めないというなら、右構成要件が上告人他一名の主張するとおりの意義内容であることを主張する上告人他一名の請求を理由なしとして斥ければ足るのであり、積極的にその意味内容を決めることは、必要も、理由もなかったのである。技術のことに余り明るいとはいえない場合には、なお然りとする。

四 原審判決には、本件特許発明の構成要件とイ号製品の構造とを対比するに当たり、多年にわたり、我が国の特許界において承認され、定着しているとみられる経験則を無視し、これに違反する判断方法により、誤った結論を導き出したものである。一般に、要件分析法と通称される対比方法においては、イ号製品の構造の中から、本件特許発明の各構成要件に対応する部分を取り出して別個的に対比対照したうえ、総合的に、作用効果を含めて判断する方法論がとられている。我が国においては、最も理論的な対比方法として、一般に承認され、昭和三六年頃から定着を見ているものである。この方法論によった場合、イ号製品がその構造において、ユニバーサルジョイントの点を除き同一であることは、当事者間に争いなく、イ号製品のゴムジョイントは、本件特許発明にいうユニバーサルジョイントに該当しないというのが被上告人(被告・被控訴人)の主張のポイントだったから、この唯一の争点について、原審判決は、まず、本件特許発明の一構成要件としてのユニバーサルジョイントの構造及び機能について、JIS規格、学術用語集等世上に存在する文献の二、三の中から一般にいうニバーサルジョイントの意義なるものを抽出し、イ号製品のゴムジョイントは、右二、三の文献から抽出した意味におけるユニバーサルジョイントの構造を構成要件とするものとはいえないかう、イ号製品は(全体として)本件特許発明の構成要件の一であるCエの要件を欠き、本件特許発明の一つの構成要件を充足しないから、その技術的範囲に属するもとは認められないと、決定的判断をした(四一頁四行目から四二頁二行目)。しかし、上告人らは、いまだかつて、本件特許発明にいうユニバーサルジョイントが原審判決認定のような技術的意味をもつものと、思ってみたこともなければ、主張したこともない。もち論、原審判決が、我々の主張とは全く係わりのない点で、我々の請求を棄却するものとは、判決を戴くまで知らなかった。もち論、この点について意見を求められたこともない。我々上告人側は、世俗にいう「闇夜に鉄砲」の驚きと失望を味わされた。原審判決は、イ号製品が本件特許発明の構成要件を満たしていないと判断したが、上告人としては、特許請求の範囲に記載の各構成要件とストレートに対比しない比較方法を不当かつ違法であると信じ、改めて、その判断をし直す機会を与えられることを熱望して止まないものである。当代理人は、原審が審理を尽くしていないので、訴訟手続上明らかにされなかったが、イ号製品のゴムジョイントも、その材質、名称の如何に拘らず、本件特許発明の構成要件の一としての、本件明細書における、あるいは、出願人が意図した機能をもち、作用効果を奏する、いうところのユニバーサルジョイントなのである。(ジョイントであることは、当事者間に争いはないから、原審判決流に語義を文法に従って読めば、争いがあるのは、僅かに「ユニバーサル」かどうかだけである)。原審判決は、その判決でいう一般のユニバーサルジョイントが風力推進装置に取りつけられた場合、どういう作用効果を奏するのかを明らかにしないまま、ただ語呂合わせのような観念論に終始し、文字の末に走り、本件特許発明の主旨を見失ったものというほかはない。

以上

(別紙省略)

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